tsugaru’s blog

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「星の子」を読んで -この世の中の受け止め方

星の子 今村夏子

普段全く小節を読みませんが、「星の子」を読んで思ったことを書かせていただきます。あくまで個人の感想です。

ネタバレをしていくので注意してください。

 

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「頭に清いとされる水に染み込ませたタオルを乗っける」、子供を助けようと藁にもすがる思いで頼った人から言われた言葉に、なるほどと、実践する両親。この小説ではそんな宗教にのめりこむ両親ではなく、第三者的目線を持つ子供「私」の視点から書かれている。両親に反発し姉が家を出て行く一方、変なところがあることを認めながらも両親が好きな「私」。

「私」はその教会の実態を掴めていないものの、家族や会員との交流が好きで関わり続ける。リンチがあったとか、教会でお世話になってるお兄さん、お姉さんが催眠術をかけて訴えられたとか、真相かどうかもわからない情報をどんどん受け取って行く。


「私」はそれに対して何も思わない。ただ、聞いた事実を聞いた事実と受け止めるだけである。「私」はただ、楽しいものを楽しいと認め、かっこいいものをかっこいいと認め、それだけである。

 

最後の最後にはまさに今間も無く、自分が変革されるかもしれない、という予感がする。しかし「私」は何もしない。流れに従い、起こるかもしれないと思うだけなのである。 

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この話を読み、自分は思えば私のような人かもしれない。小学生、中学生の時は、自分の芯のようなものがあった。あれをやっては行けないとか、こうすべきだとか。しかしだんだんと世の中の多様性に気づき始める。大学生になって社会人になった大人、自由な大学生と身近に接するうちに、あらゆる多様性を認めるようになってきた。そして外界の刺激に対して無関心とは行かないまでも、小さい頃のように物事に感情移入することが減ったように思う。

 

それと同時に自分の軸がどんどんなくなっていくのを感じていた。自分は自分で良い、そうであるが、多様性を認めた自分は過去の自分に囚われることを許そうとしないのだ。こうして自分は形を失う。こうして私は私の置かれた環境に納得することはないが、あらがうことをやめてしまったのではないか、と感じるのである。

 

この小説は宗教がテーマではない。外界からの刺激に対する受け止め方にあると思うのである。私はこの小説の最後がとても印象的である。私の読解力、あるいはコンテクスト理解力が少ないせいで、多くの小説は最後99までは分かったとしても最後の最後は単なる本筋とは関係ない飾りに見えてしまう。しかし、この小説の終わりは私にとって理解でき、意味あるものであった。私は宗教的に改革されるかもしれないと言うところで終わっており、続きがどうなるか感じさせるところは今まで読んできた数少ない小節と変わらないわけだが、これは結論がはっきりしている。この結論は改造されるかどうかや、実際周りからアクションがあるかどうかではない。私が動こうとしないところにあるのである。私はこれからも現状をただありのままに受け止めて、自分の置かれた環境でその環境なりに生きる人生を選択するのであろう。それが良いか悪いかはどうでも良い。そのような生き方をする人が宗教と接するとどうなるか描いているのがこの小節なのである。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。